NPO法人PandA-J NPO法人PandA-J
PandA-J の紹介
こちらでは、「本当にあったいい話応募」で、全国の特別支援学校、福祉事業所の方々から応募された作品を展示しております。
(※)現在多数集まっていますが、ホームページに掲載するための作業を進めています。
願いごと

私の姉は障害者である。
障害といっても身体障害ではなく、知的障害だ。「自閉症」である。
落ち着いている時は、おだやかでよく笑うが、気に入らないことがあると泣いて騒ぐ。家族のことが好きで、すきあれば遊んでもらおうと思っているが(特に私に)、皆忙しく、なかなか遊んであげられないでいる。
昨年の7月、姉の学校で「短ざくにお願いごとを書きましょう」という授業があった。
姉の友達は「ラーメンが食べたい」だとか、「ディズニーランドに行きたい」と書いたそうだ。そして、姉も短ざくをわたされ、すぐにペンを持った。

去年は受験の年で家の中の空気もいつもの夏とはちがっていた。姉は一人で遊んでいた。きっとさびしかったと思う。
そして、私のことを嫌っているにちがいないと考えていた。
ところが姉はペンを持ってすぐに
「かなえちゃんが合格しますように」
と力強く、そして大きく書いた。
それを見た姉の先生はとても感動したらしい。その後「自分のことをかいたら」と言うと、小さく隣に
「一人で通えますように」
と書いた。

書いた時はまだ中学生で、スクールバスで通っていたが、高校生になったら、公共交通機関を使って通うように言われていたからだ。

その短ざくは夏休み前に返され、夏期講習で忙しい時も、模試の成績が悪かった時も、入試の前で緊張していた時も、いつも私が見える所に貼ってあった。
合格発表の時、パソコンに私の受験番号あって喜んでいた私に、姉は得意げに言った。
「だって春ちゃんが『かなえちゃんが合格しますように』って七夕の短ざくにお願いしたんだから」と。

もちろん、皆とちがう姉なので、食事や風呂の世話でたいへんな時もある。
しかし、たった一つの書く願いごとに自分のことではなく、私(妹)のことを書いてくれるやさしい姉である。
もしかしたら、私の合格を一番信じていたの母でもなく、父でもなく、祖父母でのまく、塾の先生でもなく「姉」だったのかもしれない。

パジャマで朝食の話

生まれた時から口の中に障害があったなお君は、
食べる事も話す事もうまくできないダウン症の男の子。
赤ん坊の頃から何度も手術を受け言語指導や手作りの絵カードや写真を使って
長い年月、訓練を続けてきましたが効果は少しも現れず、
お母さんは なお君から「お母さん」と呼んでもらえる日は
永遠に訪れないのではないかと気持ちが暗く沈んでしまうこともありました。

そんな なお君がやっと「おかかん」「おとったん」と言えるようになった頃、
なお君には四つ年下の元気な弟が出来ていました。
お母さんはこの二人の男の子を障害のある子もない子も平等に育てようと
どんな時でも同じように接してきたつもりでしたが、弟の成長があまりにも早く、
なお君が出来る事を獲得する為に一つ一つ積み重ねてきた努力の日々を、
弟はあっという間にたやすく追い越していったのです。

弟は小学校高学年の反抗期にさしかかった頃、
学校が休みの日になると一日中パジャマのまま過ごすようになり
お母さんがいくら注意しても
「めんどくせぇ」
「どうせ夜になったらまたパジャマ着るんだからこのままでいいんだ」
などと言い決して言うことを聞きませんでした。
とうとうお母さんも根負けしていつしか注意するのをあきらめてしまいました。

そんなある日、ついに なお君までもがパジャマのまま
朝ごはんを食べにテーブルについたのです。
一度身に着けた事はきちんと守るなお君で朝起きたら自分で着替えをし
食卓に着くのがすっかり習慣になっていたので
お母さんはびっくりして
「パジャマのままご飯を食べるのは病気の時だけよ。お着替えしておいで」
すると なお君はだまって自分の部屋へ戻っていきました。
やっぱりあの子は素直でいい子だなぁとホッとしているお母さんのもとへ
再び現れたなお君は、なんと
別のパジャマに着替えて来たのでした。

弟は大笑い。
でもお母さんは口では言い返せないなお君が、弟のことは許し、
自分だけ着替えをさせられた事に全身で抗議しているように思えて
衝撃を受けたのでした。

なお君も思春期を迎え心の成長を言葉ではなく自分なりの方法で
周りの人たちに伝えようとしているのです。
それもとびっきりのジョークで。

その日は 兄弟仲良くパジャマ姿で朝ごはんをいただきました。

二度としない、土下座

私たち親はホッとする話をしてくれって言われても「うーーん」って考え込んじゃいますよね。
だって、いつも「すみません、すみません」でしょ?

私は、この子が生まれる前からフルタイムで働いています。
夫も協力してくれて、赤ちゃん教室や療育センターでの訓練を受けてきました。
保育園に入るのも、苦労しないで入れました。

そんな私たち夫婦の今までの最大のピンチは学童に入れるか?入れないか? でした。
小学校は、家から歩いていける学校を選びました。学校の先生方も、この子をみんなで育てていきましょうって言ってくれました。
校長先生も担任の先生も、同じようにみんなでみんなで育てていきましょうって。

でも、小学校は終わる時間が早いんですよね。
下校時間は、お昼を食べてすぐですから、私が帰宅するまでの時間をどうするか?が一番の問題でした。

はじめての子どもです。
小学校に入学できる喜びと、学童クラブには入れるかどうかの不安が混ざり合っていました。
そして、学童クラブに入れてもらうことができないと私は仕事を辞めることにもなります。

学童クラブは、保護者の方々の代表者で運営されていました。

しょうがいのある子どもが学童クラブに入ってくることはいままでにはなかったことでした。

保護者の方々の代表者評議委員の会議で
「しょうがいのある子どもでも、だいじょうぶなのか?」
「他の子どもたちにケガをおわせるのではないか?」など議論したようです。

私たち夫婦は、気が気でなく・・・・。
田舎ですから、障害児保育なんて言葉などなく、ともかくみんないっしょに安全に活動できることが大切という雰囲気でした。
そして、その時がきました。小学校の入学式の何日か前の夜のことです。

学童クラブの評議委員会の場に私たち夫婦は呼ばれたのです。
代表のお母さんが、すこしこわばった表情で私たち夫婦に
「結論から言います。やはり障害のあるお子さんの行動は私たちにはわかりません。ですので、学童クラブへの入所は今回はなかったことにしてください」と。
あの時は、私は夢中というか我武者羅(がむしゃら)でした。
だって、学童クラブに入れないと仕事を辞めなければいけないから。
私はこの仕事を続けることが、私自身、私の子ども、そしてこれからこの国を作っていく子どもたちの一役を担えると考えていました。いや、今でもそう思っています。

とっさに「おねがいします。なんでもします」と言いました。
そして、床に頭をつけて生まれてはじめて人様に土下座をしました。
今から考えれば泣きながら土下座して、ともかくこの子のために必死でした。
私は泣きながら訴えました。
親が子どものために捨て身でかかるとは、こんなことなんでしょうね。
心の中は、今畜生(こんちくしょう)って思う半分、どうにかしてくださいって祈っっていたんですよね。

その甲斐もあって子どもは、学童クラブに入れました。

6年間、私は自分の仕事である小学校の教員と学童クラブの会長という二つの仕事をすることになりました。


でもいいんです。
私が会長になってからは、だれにも土下座などさせていませんから(笑)

運動会

待ちに待った運動会の日が来た。
ぼくたちは、朝早くから起きてワクワクそしてドキドキしながら学校へ行く時間を待った。
おばあちゃんもおじいちゃんも今日は運動会に行く
おとうさんもおかあさんもぼくたちを見に来てくれる。

ぼくは小学校に入ったばかりの弟と、なんどもなんども徒競争の練習をした。
学校から帰って、夕方仕事から帰ってきたかあさんとぼくと弟の3人で「よーいドン」の合図で広い神社の端から端まで走った。
何度も何度も走った。

もちろん、3年生のぼくはいつも弟よりも早く走れた。
かあさんは、「おにいちゃんの後ろをついていくことを覚えちゃうから、今度はひとりだよ!」と弟に言った。

弟は、同じ小学校の「ひまわり学級」にいる。
だから、おなじことを何度も何度も練習して、ぼくたちは運動会の練習をした。

徒競争は、各学年ごとに走った。

今度は弟が走るばんだ。ぼくは、自分の応援席から弟に応援の声援を送った。

「いちについて」 校庭は静かだった。
バン!! ピストルが鳴った。
「がんばれ!!」とみんなが声援を送った。

スタートラインから弟が動かない。
「え?どうした?」と思った瞬間、弟はゴールと正反対にトラックを走り出した。

どんどんぼくの応援席の近くに来る。
「ゴールはあっちだ!」と叫ぶぼくは、同時に応援席からきれいに白色のラインが引いてあるトラックのコースに走りだしていた。
弟はうれしそうに笑いながら、ぼくのほうに向かってくる。

弟の左手を、ぼくは右手で握りスタートライン、そしてゴールに向かい二人で走り出した。

かあさんの声が聞こえた
「ふたりとも、がんばれ!!」
その瞬間、校庭の声援は「がんばれ!!」「はやいぞ!!」と

校長先生たちがいるテントですわっていた人たちは、みんな立って応援してくれていた。

ゴールの手前でぼくは弟の手をはなした。
弟は、神社で練習した時よりも早いスピードで、ゴールに向かって走っていった!!
「わーーーーー」「すごいぞ!!」
と声援が聞こえた。

弟は、ばんざい!をしたポーズでゴールのテープを切った。
神社でゴールした時のポーズを練習した そのままだ。

校長先生が、テントから出てきて拍手をしていた。
その拍手は、どんどん大きくなった。

かあさんを見ると、拍手をして真っ白いタオルで目のあたりを拭いていた。

なんか、ぼくもうれしくって自然になみだが流れた。

 

ダウン症のトモくんは、緘黙と引きこもりでお母さんを困らせてきたけれど、いつも美人の先生や看護師や世話人さんに囲まれている。30歳になって、グループホームで暮らしている。そんなトモくんの生まれたばかりの頃の話しをお母さんが語ってくれた。

 生後3ヶ月のトモは、重症の肺炎で生死の境をさまよい、約3ヶ月間入院していました。
 乳児なので、大きなガラス張りの乳児室に、沢山の病気の赤ちゃん達とともにベッドを並べて、小さなトモは眠っていました。
 お見舞いは1日数時間、ガラス越しに顔を見るだけです。
 『障害児』の母になりたての私は、当時まだ大きな混乱の中にあり、そこへ生死の境をさ迷ったことで、さらに落ち込み、悲惨な精神状態でした。
 そんなある日、主治医の下でトモを担当してくれていた若い研修医が、いつものようにガラス窓の前に立っていた私のそばに寄ってきて、こう言いました。
 「お母さん、赤ちゃんは皆、同じように見えるんですが、不思議なことになぜか?何となくいつも看護婦さんや僕ら医者に抱っこされている子とそうでない子がいるんです。トモくんはその前者なんです。いつも誰かにかまわれていますよ!」
 その若い研修医が、私を励まそうとして言ってくれたのか?単に事実を話しただけなのか?今となってはわかりませんが、その時の私には何よりも嬉しい一言で、乾ききった心に新鮮な水が沁みていくようでした。
 「障害があっても、普通に社会に受け入れられ、愛される存在になれるのかもしれない。」そう感じた最初の出来事だったと思います。
 生後間もない障害児やその家族に接する医療関係者の何気ない一言は、かようにその後の家族の人生を左右することを知ってほしいなぁと思います。

水泳大会

今からちょうど6年前。
息子が小学校6年生の夏。
自閉症の息子は、特別支援学級に在籍し、普通学級と交流していました。
少しずつお友達とも関わっていることが嬉しかったです。
最後の水泳大会。
何回も何回も練習してゆっくりだけどやっと25m泳ぐことができました。
すごくぎこちない泳ぎだけど親としては嬉しかったです。
学校では、毎年、水泳大会があり、水遊びのような支援学級の発表。
一方、普通学級のレースは真剣そのもの。
そのレースに息子が参加することに!
途中足を着いてやっと25mたどり着けるようになった息子が・・・
「お友だちに迷惑をかけるのでは」と応援に行きたくなかったけど、ママ友に誘われていったら、息子はトップスタート。
あ然としてしまい、「・・なんで?足を引っ張るに決まっているのに」と心配でしょうがなかったです。
案の定、かなりの差をつけられていたけれど、一生懸命泳いでいる息子の姿と応援してくれる子どもたちの声で涙が溢れてきました。
「僕らが挽回するから大丈夫!!優勝するぞ」
この時、担任はお休みでしたが、息子の交流学級はクラスの団結で見事優勝。
クラス全員が優勝の歓喜にわいているとき、息子も一緒に最高の笑顔でいました。
一日、涙が止まりませんでした。

「おかあさん」って言ってくれた日のこと

「おとうさん」って言えるのに、「おかあさん」ってなかなか言ってくれなかったね。
だけど、小学校1年生の冬休みに「おかあさん」って呼んでくれました。
 そのとき、とっても嬉しかったのよ。大輝、その時のことを忘れないように、書いておきます。
 3歳下の妹は「たかいたかい」が大好き。「おかあさん、たかいたかいして」って何度も何度も「たかいたかい」をしました。お姉ちゃんも「おかあさん抱っこ」、笑い声でいっぱい。でもそんな時も大輝は一人でくるくる回ったりして一緒に遊ぼうとはしませんでしたね。
 その日は私が洗濯物をたたんでいると、背中をポンポン。振り返るとお姉ちゃんと妹があなたの手を取って、「おかあさん」と言っている。
 「はあ〜い」と返事をするとびっくりしたあなたの顔。「たかいたかい、しようか?」と、ちょっと「たかいたかい」。また洗濯物たたみをしていると、背中をポンポン。
「たかいたかい」の繰り返し。何回も同じことを繰り返して遊んだね。
 だけど、その日は大輝が一人で「背中ポンポン」ができるようになって、それから初めて「おかあさん」と言ってくれた。
すごく嬉しかったです。
あなたは、最初びっくりしていましたね。
 それまで私は、あなたがパニックにならないように、言う前や行う前に準備していたから、あなたは私を「自分の手」だと思っていたんじゃあない?あの日は、私を見てびっくりした顔をしていましたよ。私が「あなたの手」ではないことがわかったんですね。
「初めて顔を見た」っていう感じの不思議そうな表情でした。
それから、私のことを探したり顔を見たりしてくれるようになりました。お父さんもお姉ちゃんも妹もみんなで喜んでくれました。
「おかあさん」って呼ばれるって当たり前、って思っていたけれど呼んでもらえるのって幸せなことだったんですね。そのとき「神様、ありがとう」って心から感謝しました。
ずっと覚えておきますね。欲張りな私は、すぐに忘れてしまって、もっと、もっと色々なものが欲しくなりますからね。今あることに感謝するようにします。そうしないといつまでたっても幸せになれないんじゃあないかと思うからです。

ビール

お兄ちゃんは土曜日になると知的障害者の入所施設から家に帰ってきます。
いつの頃からか、お酒の飲めないお父さんの食事が終わるのを待って、冷蔵庫からビールをもってくるようになりました。
大人になっても話しができないお兄ちゃんは、ビールをお父さんの目の前で見せます。
「飲んでいいよ」
お父さんが声をかけると、美味しそうに一気に飲み干します。

小さい頃は、泣いたり笑ったりすることはあまりなく、目を離せばどこへでも一人で行ってしまう子だったお兄ちゃんが、成人式も済んだある日、コーラとビールを間違えて飲んでしまいました。
顔を赤くしたお兄ちゃんでしたが、ケロッとして気持ちよさそうにしていました。
それから、お兄ちゃんの「一気飲み」がはじまりました。

ある日、いつものようにお兄ちゃんがビールを持って来たとき、お父さんは自分のコップを差し出して、
「お父さんにも、ちょうだい」
と言ってみました。
お兄ちゃんは、お父さんのコップに、ビールを注いでくれました。
お父さんが
「かんぱ〜い」
というと、
お兄ちゃんは、お父さんのゆっくりコップを傾ける仕草に合わせて、自分もゆっくりとビールを飲み干しました。
お父さんとお兄ちゃんが、初めて二人で飲んだビールでした。

 

小学校に入った時に幼なじみの友だちのお姉ちゃんが僕たち小学1年生のお世話ががりとして学校まで一緒に行った。
ぼくにもおねえちゃんがいたけど、いつもお母さんが自転車でおねえちゃんをぼくと同じ小学校まで送り迎えした。
ぼくのおねえちゃんは、なかよし学級という知恵が遅れている子どもたちが勉強するクラスにいたからだ。
友だちのおねえちゃんは、小学校1年生のぼくたちに横断歩道の渡り方、道の歩き方を教えてくれた。
ぼくのおねえちゃんと同じ学年なのに、ぼくのおねえちゃんは何もできないし、いつもお母さんと一緒だ。一度もぼくに何かを教えてくれることはなかった。
 ぼくたちは、それをごく普通のことだと思って小さいころから育った。

 でも、小学校に入るとそれは「ごく普通のこと」じゃないということをクラスの友だちから教わった。
 「おまえのねえちゃん、バカだもんな」「おまえに近寄ったらバカが伝染する」
ぼくたちはいったいどうすればいいのかわからなくなった。だって、ぼくたちにはそれがごく普通のことだと生まれた時から普通だったから。

ぼくの得意なことは絵を描くことだ。自分から絵を描くことが好きになったわけじゃない。
おねえちゃんには発作がある。救急車を呼んでおねえちゃんは病院にいく。おかあさんは幼いぼくもいっしょに病院に連れていくんだ。
 一度救急車で病院に行くと、なかなか家には帰れない。

だから、どこでも自由に絵が描けるスケッチブックがぼくの「時間つぶし」の相手をしてくれる。
だから、ぼくは今でもスケッチブックを見るとつらくなるんだ。

ぼくらは田舎の大自然の中で遊んだ。時には疲れて、友だちの家でカルピスかとごちそうになった。でも、ぼくは友だちを、家にあげたことはない。奥の間におねえちゃんがあーあーと言っているから。だから、一度だって友だちを家に呼んだことはなかった。

そんなぼくも高校生になったある日、親友がぼくの家のベルを押した。
おかあさんが、親友を部屋に案内した。ぼくは心臓がバクバクとなった。恥ずかしかったからだ。
だからすぐにお姉ちゃんがいる奥の間のふすまを閉めようとしたんだけど、遅かった。

 親友に今までの姉に対する思い、そして友だちを自宅に招かなかった理由を話した。

親友は言った
「ふすまを開けろよ、おれはお前もお前の姉ちゃんも恥ずかしいとは思わない」
「ねえちゃんを恥ずかしいと思っている、俺の親友であるお前のことを恥ずかしいくなるよ」

今までのことがなんか吹っ切れた。

 

いっしょに住んでいた「きよちゃん」の大好きなおじいちゃんが亡くなりました。

おじいちゃんも、きよちゃんのことが大好きで、いつもいつも「きよちゃん、かわいい、かわいい」と言ってくれていましたね。

顔を合わす度に「かわいい」と言われるので、いつの間にかきよちゃんは、おじいちゃんの顔を見ると、自分も「かわいい」と言うようになっていました。

なので、おじいちゃんときよちゃんがいっしょにいると、お互いに「かわいい、かわいい」の言い合いで、とてもほほ笑ましかったです。

そんな大好きなおじいちゃんが亡くなって、冷たくなった何も言わないおじいちゃんが、おうちに帰ってきました。

「死んでしまう」という意味がわからないきよちゃんは、いつものように、おじいちゃんに「かわいい、かわいい」と言いました。

でも、おじいちゃんは何も言ってくれません。何かを感じ悲しそうにその場をはなれたきよちゃんの心はさみしかったことでしょう。

おうちにおじいちゃんは、いなくなってしまったけど、天国からきよちゃんに毎日「かわいい、かわいい」と言ってくれていると思います。

毎日きよちゃんは笑っていますから。

 

 娘と道を歩いていたとき 娘が「ほら」と空を向かって指をさしました。私は娘と同じところを見たのですが 何も見えなくて「何もないよ」と言ったら娘が「そら」と言いました。そこには綺麗な空がありました。どうしてか大人は空のなかに飛行機とか虹とか何かをさがしてしまいますが、娘は空を美しいと感じて私に見るように勧めてくれました。久しぶりにゆっくり空を味わいました。
 生協さんのちらしをもらうと娘は欲しいものに印を付けます。病院の先生から医学的なことで肉はなるべく食べないように。もし食べるなら鳥肉と言われていたので、しばらく魚と鳥だけにしていたら、ちらしの肉のところにいっぱい印が付けてあって笑いました。少し肉も買うことにしました。ジュースとかキャンディとかによく印が付けてあるのですが、トイレットペーパーに付いていて驚きました。そろそろ買わないとと思っていたのですが娘も気にしていたんだと知ってびっくりしました。
 会話しなくても分かりあえて楽しいです。
 私の娘の話ではないのですが先生から聞いた素敵なお話

 重度の自閉症の男の子がよくボーッとしていました。
 決まった時間に決まった場所に行ってじっとしているとのこと。
 ある日、スベリ台の上にのぼってじっとしている男の子の横に先生が行って何を見ているのか同じ方向を見てみると、綺麗な風景でした。
 その後、気になった先生はその生徒がじっとすると一緒に眺めることにしました。そしたら そこはいつもいい感じの景色で、先生は素敵な感性な子だなと思ったそうです。
 私は彼にカメラマンになって欲しいと思いました。
 そして先生も素敵だなと思いました。

 ねんど遊びの時間、皆でねんどで物をつくるのですが、つくらない子がいました。何をしているのか見ていたらねんどを耳に近づけてちぎる音を楽しいんでいました。先生が、感心して、ねんどはつくるだけじゃなくて音も楽しめるんですね。と言われたことがとても心に残っています。

 

 作業所に通う22歳の自閉症の息子がいます。最近自傷行為がひどく、目の横や頬をげんこつで殴るので顔が変形してしまいました。レントゲンを撮って骨には異常がないので作業所に通っていましたが、ある時作業所から「目の中まで腫れてきました」と緊急連絡が。慌てて駆けつけると上下まぶたが腫れ上がりお岩さん状態に。反対側の目も充血しています。“失明するかもしれない”と普段通院している障害児者を専門に診てくれる病院(大声でしゃべり飛び跳ねるため一般の医療機関にかかるには勇気がいります)に連絡するも、予約がいっぱいでどうしても翌日になってしまうとのこと。一刻をあらそうかと意を決して、近くの眼科医へとびこみました。初めての場所・人(特に病院・医者)は苦手でパニックを起こさないかと心配しましたが、先生、受付の方ともやさしく接してくださいました。先生は息子の両手をとり「こんにちは○○さん」とまずあいさつ。「腫れちゃったね。目見せてくれるかな」と自分の手で急に触ってびっくりさせるといけないからと、私にまぶたを下げさせ、目の状態を診てくれました。そんな先生の対応のお陰で、息子も落ち着いて診察を受けることができました。病名はアレルギー性結膜炎。顔の腫れとは関係ないとのことで、ほっとするとともに、近所にこんな医院があることを力強く思いました。

 

 知的障害のある息子は、今、高校3年生ですが、年長の秋に入学予定の小学校の運動会を見に一緒に行った時のことです。
 プログラムは、宝探しになり、息子と一緒に入場門に並びました。我が家以外は皆、子どもだけでしたが、母子分離の難しい、まして大勢の人がいる運動会という独特な雰囲気の中、そう簡単に手が離せる息子では、ありませんでした。
 でも一列、二列と走って行って、前方にある封筒を拾ってゴール迄、また走るだけという行動を見つめているうちに、私が手を離しても気が付かず夢中になってお友達の様子を見守って見ていました。
 外だったら戻ればと思い、1m、2mと息子から離れ息子が気が付いた時は、3m位離れていました。“お母さんは、あっちの門で待っているからね”と言うと、ちょっと不安気な顔を見せましたが、列に並べている息子を、退場門に急いで行き、息子の番を待っていると、私に向かって手を振る息子、そして他のお友達に混ざって、封筒を拾ってゴール!!障害ある息子を育てていなかったら、宝探しの退場門で感激して胸がいっぱいになるなんてことはなかったと思います。歩みがゆっくりな分、小さな一歩が、とても大きな一歩に感じて、ここまで来ました。
 宝探しと聞くと、今でも胸が一杯になる思い出です。

 

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